大量消費・大量廃棄社会が抱える5つの深い代償
Vol.3 ― 経済成長の裏で、私たちは何を失ったのか ―
「買っては捨てる」を当たり前にしてきた私たちの社会。 その代償は、想像以上に大きく、そして静かに進行しています。
■ はじめに:経済成長の“裏面”を直視する
20世紀以降、人類は劇的な物質的豊かさを手にしてきました。
コンビニに行けばすぐに手に入る食品。1年に何度も買い替える服。次々に登場する家電やデバイス。
これらはすべて、大量生産・大量消費という経済モデルの成果です。
実は筆者も以前、ファクトリーオートメーションの企業に所属し、国内外の工場に対して生産性の最大化を支援する立場にありました。
コンマ何秒の生産スピードを追求し、いかに速く、効率よく、世界中に製品を供給できるか。
その技術と仕組みの最前線にいたからこそ、ある疑問がふと頭をよぎったのです。
「これだけ大量に作られている製品は、一体どこに行き、どんな結末を迎えるのだろう?」
目の前にあるのは効率のグラフとKPIばかりで、製品の“その後”に誰も目を向けていない現実。
この違和感が、いまの筆者の問題意識の原点になっています。
本記事では、今の社会が支えている「買っては捨てる」ことの構造的な課題を、5つの視点から深掘りしていきます。
その代償は、思っている以上に大きく、そして静かに進行しているのです。20世紀以降、人類は劇的な物質的豊かさを手にしてきました。 コンビニに行けばすぐに手に入る食品。1年に何度も買い替える服。次々に登場する家電やデバイス。
これらはすべて、大量生産・大量消費という経済モデルの成果です。 しかし、この便利で快適な暮らしは、“表面”だけを見て語られるべきではありません。
私たちが見過ごしてきた“代償”を、以下5つの視点で掘り下げてみましょう。
1|環境:「捨てる前提」は地球を削り続ける
▷ 資源の枯渇
- 国連によれば、世界の天然資源の消費量は2020年レベルと比較して2060年までに60%増加すると予測されている。
- 資源需要の増加は都市化、工業化、人口増加によるもので、生物多様性の喪失、水ストレス、気候変動、大気汚染などの深刻な結果をもたらしていると報告書は述べている。
- 世界経済フォーラムの2024年世界リスク報告書では、重要な商品や資源のサプライチェーンの混乱が主要なリスクとして挙げられた。
▷ 廃棄物の爆発的増加
- 世界で1年間に出される廃棄物は約23億トン(世界銀行調べ)
- 海洋には毎年1,100万トンのプラスチックごみが流出
- 分解されないごみは、何百年も環境に残り続ける
2|経済:「安く・早く・多く」が持続性を壊す
▷ 限界を迎えるコスト構造
- 安価な大量生産モデルは、低賃金労働と過剰競争に支えられている
- 労働者への適正な分配が困難になり、貧富の格差が拡大
▷ 廃棄=“見えないコスト”
- 焼却・埋立・回収コストは税金でまかなわれ、企業活動の外部化された負債
- 食品ロスや返品廃棄(例:アパレル)は企業の利益率を圧迫
廃棄する経済は、「安く作って高く売る」という幻想的な効率性の上に成立している。
3|社会・心理:「持つこと」に中毒する消費者たち
▷ 所有=幸福という“思い込み”
- 広告・SNS・消費文化が「新しい=価値」と刷り込んできた
- 「買うことで自己肯定を得る」一時的な満足と、その後の空虚感
▷ 消費に追われる生活
- モノに囲まれ、選択肢に疲れ、「本当に必要なもの」が分からなくなる
- “消費することに消費される”という逆転現象が起きている
4|労働・倫理:見えない“誰か”の犠牲
▷ ファストファッションの裏側
- バングラデシュやカンボジアでの児童労働・低賃金労働
- 縫製工場の安全性不足・不正義(例:ラナ・プラザ崩壊事故)
▷ 廃棄先に押し付けられる責任
- 先進国からの電子ごみや古着がアフリカ・東南アジアに輸出
- 受け入れ国では焼却による健康被害や環境汚染が深刻化
5|人間性・文化:「つくる喜び」から「使い捨て」へ
▷ 手入れ・修理・継承の喪失
- モノを“育てる”“直す”“受け継ぐ”という文化が消えつつある
- 過剰な効率性と価格競争で、職人技や地域文化も消えていく
▷ 時間の早回しと“消費される人生”
- 「すぐに飽きる」「すぐに壊れる」製品が日常を加速させ、心が追いつかない社会へ
- “足るを知る”ことの価値が見失われつつある
■ 結論:大量消費社会の「副作用」は、私たちの生活そのものに現れている
大量に作って、大量に買って、大量に捨てる。 このサイクルは、もはや自然と人間の限界を超えてしまっているのです。
でも、これは単に「やりすぎた」という話ではありません。 私たちは知らず知らずのうちに、このサイクルに“最適化された人間”になってしまった。
今、サーキュラーエコノミーとは単に廃棄を減らすのではなく、 「人間が本来どう生きたかったか」を取り戻す運動でもあるのではないでしょうか。